エッセイ・論考

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青潮黒潮(オースクルス)の島

琉球の音色

 琉球音階は水際の調べにふさわしい音色をしている。海の色が音のメロディーなら、海岸線は音のリズムだ。奄美大島から八重山まで共通の音の文化圏をつくっている。島うたは島々の歴史の流れの中で交わりながら独自の調べを育んでいる。奄美の音楽は強い哀調を持ち、八重山の音楽には深い情感がある。風景に例えると奄美のリズムはトタン屋根に映り、八重山のリズムは赤瓦屋根に乗って流れてくる。集落の風景も同じ様に情哀がこもっている。音に乗った見えない波動がその時の人の思いやその場の風景も伝えている。その心を伝えていくのはその歌の命であるハートを記憶の響きに乗せているからなのだろう。時の響きを音に乗せている。だからハートのないところに音は響かない。それと同じ位、ハートの無いところにデザイン本来の道もない。風景もまたそれぞれのリズムとメロディーを持ちそれぞれの調べを奏でている。

 沖縄島を南北に走る国道58号線は海を隔てて奄美大島へ繋がっている。個人住宅の設計の依頼があって奄美を訪ねた。深々と緑衣をまとった山並みと弓なりの海岸線に寄せる波がぶつかり合う島。裾野の広がりを持たない厳しく湾曲した山の稜線は玉のような影をつけている。海へ降りる山のラインは海岸線の際で雄々しく曲がり、街や村を包み込んでいる。森が深くて身近にあるということの島の自然の豊かさと厳しさを同時に抱えているということを街や村の風景は語っているかのようだ。市街地の背後に樹海の波を感じる。市街地や集落の家並みのトタン屋根や壁が必要に応じて張り替えられたりしている。鈍い光の赤や青や黄色の混ざり合った入母屋の三角屋根は人々の生活のゆったりとした変化の様子を感じさせ、伸縮自在に動いている生き物のようだ。新しく張り替えられた白銀色のトタン屋根は住む人の果敢な姿を映しているかのようだ。小湊の集落で、300年もの歳月を現役のまま過ごしてきた旧家の民家に出合った。屋根は茅からトタンへと幾度か葺き替えられて白銀色の新しさがまぶしく、雑木林に囲まれた広々とした庭にはサンダンカの花があたり一面に咲きこぼれていた。奄美の家々の庭先は身近な森の息吹を感じさせる。ヘゴとソテツとオオタニワタリがまるで森の兄弟のように仲良く植えられている庭をよく見かけた。奄美の街や村の風景は沖縄の30年前の波動を維持して、沖縄からやってきた僕を微笑ましく迎えてくれた。奄美の風景のゆっくりと変わっていく様子を見るにつけて、沖縄の激変ぶりを感ぜずにはいられない。歴史、環境、社会の“ずれ”によって生じる奄美と沖縄の道行きの違いを痛感した。そして変化の多様性の中にあって、変わることのない文化の共通性を島々が教えているような気がする。

 象設計集団で石川市白浜公園の計画を進めていた頃、何度か東京・沖縄を往復する際に上空から眺める島々の海岸線の弓なりのラインに見とれていたのを思い出した。旧石川ビーチ(白浜公園)は以前、米軍の保養地として使用されていた。開放後、区画整理が進み海岸沿いは公園に予定されていた。市街地の正面に長い白浜の海岸線が残っているのは石川ビーチだけだった。海岸線の埋め立てがあっちこっちで盛んに行われていた。この貴重な自然の浜を守り、海岸線をもっと開かれた状態にすることが計画の使命であると考えた。計画では弓なりの砂浜のスロープを街の方向へ扇状に拡げて海浜の砦を築こうとした。芝生の斜面が街側に延びて大きく海を抱いている。街の側に石積みの要塞ができた。街の通りから海の水平線が見えるように計画された石積みは自由自在に起伏して街に寄せる波のようでもある。石灰岩の地形が大部分を占めるこの島にとって、石の活用は古くからの知恵として培われてきた。道や畑の土木的なスケールから城塞や家の屋敷囲い、豚舎に至るまでその利用範囲は広い。戦後、米軍基地建設から入ってきたコンクリートブロックが一般に普及するようになって、石積みの技術はそのままコンクリートブロックに受け継がれる。白浜公園では石とコンクリートブロックが波打際でぶつかり合う波と岩のように戯れている。琉球ガラスや赤土をブロックと組み合わせてサンゴの海を表現しようと頑張ってみたが、色ガラスは跡形もなく割られて消えてしまった。名護市庁舎ではそうした造形要素をより鮮明に組み立てているように思う。久しぶりに白浜公園を歩いてみた。移植したフクギの安定した枝ぶり、目を見張る程に成長したクワァーディーサーの木、樹齢も知れないモクマオウの大木、芝生の広場は樹が主役だ。樹陰で老人達が語りあっていた。砂浜を半分つぶしてできた埋立地では我が物顔の公共物がはしゃいでいた。公園の周りは既に新しい市街地ができている。あっという間に街ができていく。どの街も同じ様なスピードでできていく。そこにあるのはただ建設の勢いだけが強く印象に残ってしまう殺伐とした風景だ。集落が持っていた知恵の集積は跡形もなく消えていく。

 那覇市の丘陵地で現在独立住宅の設計を進めている。計画地の周辺を歩いていると、新旧の家並みが渾然と混ざり合った街の風景に出会うことがしばしばある。区画街路のコンクリートアパートの一角から、ピアノの練習曲が聞こえてくるかと思えば、その音に混ざって路地の向こうに三味線の音が響いていたりする。ゆるい段丘状の拡がりの上に建並ぶ建築群。赤茶や青や緑や黄色の軒の庇に縁どられたコンクリートの家並の粗雑な色合いも、遠のいていくにつれて風景の中に融け込んでいく。段丘の上から眺める市街地は波打際のさざ波のようにバランスを保っていたり、怒涛のように荒れていたり、まるでサンゴの群れのようにはいつくばっている。その丘の上のくぼみや崖っ縁のあたりは老木が茂っていて、茂みの中から清水の湧き出るところがある。その一帯はきまって旧集落の面影をとどめている。国場から織名にかけての旧集落の連なり、その配置や方位をみると、一定の規律に従っている様子が読み取れる。丘の稜線を伝っていくと集落に風水の構図を見ることができる。その連なりのもう一つ向こう側に首里の家並があり、首里城がある。さらに同じ稜線の向こうに中城その他のグスクを取り巻く村や街が島の中南部一帯に拡がっている。「グスク」と呼ばれる聖域から城塞へと発達した空間は「へ」の字型の断面をしたゆるい段丘の頂上にある。街や村もかつて海底で増殖したサンゴ礁の上に乗っている。発達したグスクはサンゴ礁の岩場を弓なりの海岸線のラインのように石積のカーブで囲って、陸に浮かぶ小さな孤島のような砦をつくっている。グスクが島なら周囲の街は水のひいた海かサンゴの脱け殻か。新首里城は陸のサンゴか竜宮か。熱い視線をそそがれた新首里城は死滅した海のサンゴをよみがえらせるかのように再生したのだろうか。浮上したサンゴの群れは再び海の彼方にあるというニライカナイの理想郷を探しはじめるだろうか。今という時間の中で朱塗りの漆の光沢が異彩を放っている。

ワップー(分配)とユイ(結)の精神

座蒲団

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽に座ったさびしさよ
上の世界をはるかにみおろしているように
住み馴れぬ世界がさびしいよ

 戦前戦後の混迷の時期を生きた詩人、山之口獏の詩の一節である。生活の目標が見えないまま“快適”を売り物にする住宅産業の勢いは続いている。生活にとって本当に必要なものは何だろう。歴史を振り返って考えてみるいい時期ではないだろうか。今、我々自身が変わらなければならない歴史の転換点に居るとすれば、我々自身がどのように変わればいいのかを模索していなければならない。 建築は一方で客体としての“もの”を扱う行為だが、それを扱う生活主体の自己コントロールにかかわる生活のモラルを新しくとらえなおしていくことがもう一方のテーマでもある。家造りはそこに住む人達の生活の機軸を見つめていく過程で内と外の環境のバランスが保たれていくように思う。

 最近、恩納村に完成した「手づくり石鹸工場」は自然環境に危機感を抱いている一女性が水の再利用に挑んだエコロジー運動の実践だった。風や水をどのように巡らすか。敷地内で水を取って、水を溜め、水を配る自給システムをいかにデザインするかを中心に計画を進めていった。火を包み、水を囲む。ムイ(盛る)とクムイ(掘る)の二つの形態を螺旋状に結んでムイからクムイへ水が流れるようにする。ムイの渦巻きは火を包む工場になり、クムイの渦巻きはその名の通り池を造る。水のある風景を求めて、人間が最初に住み始めた文明のはじめに遡って水のありかをつきとめるかのような手さぐりの感慨があった。文明は水のある場所で始まった。水を汲むという行為は文明の発生した時から生活の軸になっていた。水といかに触れ合い、水をどう巡らすか、新たな文明の黎明期に差し掛かっていくような気配がする。八重山石垣市白保の海で見たサンゴの美しさが普通の海の姿であった時代、“守る”とか“残す”とか言わなくてもよかった時代の生命体の活力を必要としているのだろうか。

 琉球列島は黒潮海流に漂う島々の知恵の交流によって独自の習慣を持ち、中国大陸の大河流域からはじき出された文明の知恵に触れて生活の新たな様式を生み出してきた。大和の権威によって生活様式はその枠を組替え、戦後、アメリカの合理的な作法に接することで生活の外観は半世紀の間に急変を遂げた。米軍基地の存在は島の生産体系を変えさせ、自動車文明は生活のリズムを一変させた。復帰後の建設ブームはその流れをさらに加速していった。現在、観光を機軸に生活の多様化がいわれている。何時の時代も島々は好むと好まざるとに拘わらず周辺勢力との接触によって成長し、また破綻もしてきた。さて歴史に何を学ぶか。断片的に史実をコラージュしても流れの行方は見えない。歴史の屈折点を通り抜けながら独自の世界を失うことのない精神に目を向けよう。心の内側に向かって弧を描くことを忘れない人々の知恵がある。歴史の緊張を難なく潜り抜けてきたテーゲー精神も肯定的に見れば独自のバランス感覚ではないだろうか。そして戦後の混迷を支えてきたのはワップー(分配)とユイ(結)の精神ではなかったか。今日、地域の問題は世界の問題と切り放しては考えられないところへ進んできている。個人主義は田舎と都会を切り放し、理想と現実を分断している。そして理想の欠如は人を無気力にし、その果ての心の貧困は依存体質を生み出し、その上に貪欲があぐらをかいている。

 村や街の風景が変貌していく中で、未来に何を受けついでいったらいいのか。愛と信頼によって培われてきた時代の精神に学ぶことがあると思う。今という時間は、古の道が未来の道に巡り合う心のレールを拓いていく時なのではないだろうか。

水際から水平線へ

 石川白浜公園を手掛けて以後、生まれてくる僕の建築空間にはいつも海がある。建築が海を抱いている。沖縄の風水を代表する墓庭も海を抱いている。伝統的な家や集落も海に向かっている。人々の生活の中に無意識のうちに海の拡がりを直観していた時代の風景には生命力が感じられる。ニライカナイの海の思いには畏敬の念が込められていた。視線の広がる範囲に海をとらえることのできるスケールの街なのに、なぜか近視眼的な現在の街並みは退屈で殺風景だ。現在の建築群をコントロールしている価値体系そのものに大きな疑問を感じる。美意識までも建設の勢いの荒波に呑まれてしまったかのようだ。

 目を波打際の光に。一点の想いを水平線に。ひたすら夢中になっていた粗雑な思いを解かして、闇の波動を光の海へ。森陰から水際の光へ。水際から水平線へ。愛に導かれて咲いている野草や鳥達を奄美の森に描き続けて死んでいった田中一村。一村の絵の中には直観の光沢が輝いている。つつましさの中にきらめきと活気がある。自然の中にいっぱい溢れている合一の美を見出すことができる。気が静めば人の心のうちにそれを見ることができる。そして街や村に、家並みに、公園に、どこでもそれを見ることができる環境を造っていくために、スピードではなくハーモニヤスな開発を・・・。そのためには心で納得することのできる生活意識、自然のバランス感覚を身に付けていくことが大切だろう。内側に向かう心の変化がそれをそうだと認識する。自分の心に変化をもたらすのはスピリチュアルなこととの接触であり、それは生活の質を高める意識の隅々に宿っている。建築する行為はそのための舞台を準備することとも言える。響き合い、分け合うという接触を通して人は世界を知り視野を拡げていく。

 「宇宙意識が創造の原因であり、創造は宇宙意識の表現である」とは誰が言ったか覚えていないが、何かを生み出すということは限りのない理想へと向かう人間の行為の果てしない調和なのだとニライカナイの創造主が暗示しているようだ。宇宙意識に触れる想いは内面の変化のための最高の妙薬であると思っている。

雲の上(山之口獏詩集より)

たった一つの地球なのに
いろんな文化がひしめき合い
寄ってたかって血染めにしては
つまらぬ灰などふりまいているのだが
自然の意志に逆らってまでも
自滅を企てるのが文明なのか
なにしろ数ある国なので
もしも一つの地球に異議があるならば
国の数でもなくする仕組みの
はだかみたいな普遍の思想を発明し
あめりかでもなければ
それんでもない
にっぽんでもなければどこでもなくて
どこの国もが互いに肌をすり寄せて
地球を抱いて生きるのだ
なにしろ地球がたった一つなのだ
もしも生きるには邪魔なほど
数ある国に異議があるならば
生きる道を拓くのが文明で
地球に替るそれぞれの自然を発明し
夜ともなれば月や星みたいに
あれがにっぽん
それがそれん
こっちがあめりかという風にだ
宇宙のどこからでも指さされては
まばたきしたり
照ったりするのだ
いかにも宇宙の主みたいなことを云い
かれはそこで眼をあげたのだが
もういちど下をのぞいてから
かぶった灰をはたきながら
雲を踏んでいったのだ

地球という一個の細胞の中でもがいている国という権威の愚かしさがうかがえる。生命は地球を抱いて生きている。エネルギーを放出してばかりいる外面的変化の目標から、エネルギーを吸収する内面的変化へ移行すること。ユニバーサルな視野の拡がりの中に一人ひとりの魂の目標を見つけること。そして、彼方の目標が定まったその時、無限の彼方から海の音色が聞こえてくる。

掲載記事;瓦の探究誌 季刊「KAPARA」4号 平成6年2月発行「特集」琉球世界観

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