エッセイ・論考

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偽装社会を考える

 蝶を追いかけて、森の中を駆け廻っていた少年の頃、生の神秘に宿っている美しさに心を奪われていた。とりわけ希少種の蝶の生態に目を凝らした。中でも亜熱帯の森を低空飛行で駆け抜けるコノハチョウは、その不思議な擬態の神秘さに驚く。ビロードのような色鮮やかなブルーとオレンジの配色の羽の表面と、閉じた時の木の葉の色形が人を引き付ける。あの美しさはどこからやってくるのだろう。究極のデザインはどのようにつくられてきたのだろう。神の恩恵としか言いようの無い、自然の中で暮らす野生生物たちが、生きるためにそれぞれの環境と向き合い、対処する術を身につけている。己の姿を森の植物になぞらえて、天敵から身を隠す見事な技だ。他との調和という点から客観的に眺めてみても、そこには隠そうとする心理が働いているとは思いがたい。森の環境に身をおいて己の姿をさらす蝶の自由と森の秩序が、長い時間を経て保たれていることが不思議でならない

 森は生物達にとって、生存をかけた戦場でもある。自然の法則に従い環境と戦う、生物達のドラマがある。生物達が、自然の森の中で趣向を凝らす様態はみごとだ。その複雑な肢体のメカニズムがくりだす表情は、自然に身を任せているとは言え、見る者を楽しませてくれる。人間もそうありたいものだ。人は森の生活から山の裾野へ、そして平原へ移動し、長い年月をかけて多くの感情を発達させてきた。生物が森の掟にしたがって、バランスを保っていられるように、人は自ら発達させた社会との関わりの中でバランスを保っている。しかし、他の生物のようにすべてを自然のままに身を委ねているのではないことから、さまざまな問題を生み出している。知能の発達は機械文明を産み、便利になった生産体系が、社会生活の必要を再生産して大量消費社会を形づくっている。発達した意識は生物達を従え、人間同士が力を競って互いに争い、さらなる豊かさを追求するようになった。そのつど個人の自由と社会の秩序が、拮抗し合いながら経験を通して学び、対立を和解させる術をもあみ出してきた。

 蝶を追いかけていたあの頃の僕達のいでたちは、まるでベトナムのジャングルの中にひそむゲリラ兵のようだった。迷彩色のシャツやリュックを身にまとい、米兵達がジャングルで使う武器こそ持ってはいないが、戦闘用品をかついで森の中に迷彩色のテントを張って数日過ごした。そのスタイルは流行のファッションではなく、その時手に入る安価な道具に過ぎなかった。当時、ベトナム戦がたけなわで、徴兵制度で任務をあてがわれ沖縄にやって来る若い米兵が多くいた。さまざまな物資が市場に放出され、そうした放出品を活用する知恵を私達もそれと気付かないうちに身につけていた。外見は米兵の衣服を身にまとっていても、まったく戦闘とはちがう用途に活用するスタイルは、偽装とは言え資源の有効利用と考えればその価値は逆転する。  人は他の生物の世界と異なり、人為によって無限の光を見出そうと考え始める。科学は物事を理解する力、和の原理に基づいて、進んでいくのでなければ、私達自身が生き永らえる事が危ぶまれる。あらゆる生物と人間が同じように、喜びを分かち合ってほしい。何故この世に争いは無くならないのか、その問いに答える事は難しい。ひとりの良心を否定する社会の正義はあってほしくないし、ひとりの良心が社会の規範を否定しても、事態は進まない。異なる生物同志の、あるいは異文化間で起こる相容れない習性を、和解させる方法が何かあるはずだ。それが無限の光の中に、きっと備わっているのだと思える方が、楽天的でいい。 ひとりの自由と社会の秩序は、同時にあるものだ。しかし、そのまま世の中の習性に合わせて、妥協してしまうのは、物事の核心から的をそらす事になる。本当の自分の意見を隠してしまう。他人の意向に合うように、相手の機嫌をとるカメレオン人間が、いかに多い事か。あたかも自分がそうであるかのように見せかける、節操の無い人間にはなりたくない。偽りの自分を生きる事ほど息苦しいことはない。世の中ではびこる偽装の裏工作は、このような心理状態ではないだろうか。思っていることと言っている事が、バラバラでは対処のしようも無いではないか。蝶やカメレオンの擬態はその天性に従っているから、ほほえましくも見えるが、経済的価値だけにとらわれて溺れてしまう偽装人間は、醜態極まりないと撥ね付けてしまうほうが良いのか。金まわりを良くするためなら、何でもする輩は全くの無知か、それなりの事情があってのことだろう。金銭をよりどころにしている社会では、個人の自由を否定してしまう力が働いている。

 私は高校生の頃、山歩きの帰り道、ヒッチハイクで知り合ったアメリカ人に連れられて、米軍基地の中の彼等の生活の一端に触れる経験をした。知り合って後も、日曜日の度に友達を訪ねていって基地の中の彼らの暮らしに触れるのが愉しかった。昔のことのようだが、その後の自分の生活に大きな影響を与えている。異文化に触れることが、若い僕等の感覚を刺激したのは言うまでもない。基地の中のビーチで、始めて食べたハンバーガーの味は格別だった。「世の中にこんな美味いものがあるのか」と思ったほどだ。また、ウィスキーやタバコが自由の象徴のようにも思えた。その時の異文化体験が、良し悪しはともかく相対的な価値観に目覚め、視野を広げてくれたことは有り難いことだ。

 異文化体験は、人を生まれ変わらせる。私はその10年後に出会った、アメリカ人のヨガ修行者からヨガを教わり、ベジタリアンの食事会に招かれた。その時のことを今も鮮明に覚えている。簡素な食卓に並んだのは、半割にしたヘチマに、味付けした豆腐と野菜をつめてオーブンで焼いたものであった。その斬新な組み合わせと味覚、それ以上に彼等の表情が輝いて見えたことが、私にはとてもショックだった。それまでの10年間私は、アメリカ的な自由放任の生活が自分らしいと思い込んでしまっていた。あの時はどうしてそれが良いと思えたのだろう。私はヨガのベジタリアニズムに出会った時、衝撃を受けた。ほとんど味覚だけに反応してしまっている自分の食生活に気付いた。人は、他人が自分を眺めるように、自分自身を遠くから眺めてみることができないでいる。異文化体験は、そのせまい自分が偽装を施している事に気付くきっかけになった。

 私はその後、ヨガの思想に共鳴して、ベジタリアンの道を歩んできた。自分の心をよく整える生き方があることを教わった。ハンバーガーとの出合いの時よりもっと豊かになった気持ちだ。異文化との出合いが、これほど自分を変える事になるとは、それまで想像もつかなかった。ベジタリアンでいる事は、時折世の中の価値基準とぶつかる事がよくある。集会や宴会の席では、何故みんなと一緒の食事を楽しまないのかと変人扱いされるのが常だった。日本の社会は、いまだに個人の考えを尊重する習性が整っていないように思える。

良し悪しはともかく、個人で物事を選択する際の拠り所となる価値基準は不確かだ。

台湾でヨガの大会に参加したとき、そこで知り合った人が、中国精進料理の店へ案内してくれた。メニューを見た私は肉、魚ばかりなので驚き、「えっ、私はベジタリアンなので、こんな料理は食べられない。」と言ってしまった。相手は笑って「これは全部ベジタリアンメニューです。」と返してきた。よくここまで真似られるものだと感心しながら、偽肉や偽魚を食したのだった。芸達者な中国人の特技なのか、さては荒唐無稽な美意識かと戸惑いながら、その味覚を満喫した。

 それは蝶の擬態と同じ次元で、見て味わって喜べる。動物を食べない変わりにそれを模った偽肉などを調理する仏教や道教の慈悲心があらわれている。肉食文化に対抗するかのように見せかける理由は何だろう。肉食と同等でないと見劣りがするのか、少数派の弱さをカバーする意味も込められているのか。肉食が力をふるい、その勢力を象徴するものであるかのような現実があるからだ。広大な中国大陸の戦場を駆け抜けてきた人々の価値判断が、そこに反映しているように思える。私達の今の食文化が、偽物や借り物によって「豊か」になったと思い込んでいる偽文化の貧しさを思わずにはいられない。

 菜食を始めていくうちに変わっていく自分の生活態度は、我ながら目を見張るものがあった。市場へ買い物に出かけては、その食材は誰が手がけ、どこからやって来るのかを想像するようになった。自分で調理することも始め、食生活の豊かさの源を自分なりに考えるようになっていた。価値の基準がどこにあるのか、物の豊かさを追求する事が平和の道につながるのか。物事には秩序がある。必要を満たすという目的を達成する手段が物か心かのいずれかの選択ではなく、豊かさの意味を探ることが大切だ。生命を尊ぶ気高い動機があれば、精神的な充足を得る事は難しくない。そんな当たり前の価値が逆転しているように思える。

 生産に基準を合わせた資本の論理は物の価値を優先してきた。その果てに打算的な生活態度がはびこり、仕事に張りが無く、自分に自信のない心理状態におちいる。精神は上方へ向かうよりは、下方へ流れやすいものだ。そして、社会全体が創造的な活動の場を失いつつある。そんな昨今、偽文化を容認してしまう風潮は、利他的な動機が薄いからではないだろうか。コントロールの効かない故障車を運転しているようなものだ。自制心の無いところに美意識は生まれない。物事を選択する際、心の働きをよく見極める必要がある。その心の糧を失っていることが実は大きな問題なのだと思う。この社会に今必要な事は何か、精神性の価値をないがしろにした近代化の一枚岩を割って、新しい道を開いていく事だろう。 そもそも、人はなぜ欲望を捨てられないのだろうか。次から次へと新たな願望を満たすためにエネルギーを費やしていいのか。

 「人間は無限へのあこがれをいだいている。」とインドの哲学者,P・Rサーカーは言っている。その言葉の意味を紐解くと新たな視点で見えてくるものがある。人間の意識は本来、無限の彼方から限りない創造を繰り返して進化してきた。サーカーは彼の哲学講話の中でブラマチャクラ(宇宙創造の輪)という宇宙の進化論を説いている。その中で、無限の意識から五元素(エーテル、空気、光、水、土)が生まれ、それが凝縮されて生命が誕生する。そして、長い進化の果てに発達した人間の意識は再び無限の意識へ帰ろうとする。その果てしない意識の旅の途上に私たちは居る。一方、動物から進化した人間は自由な意思を以って行動し自ら物事を選択してその行方を捜す。無限の意識への帰り道は近いようで遠くにあり、また、遠くにあるようでいて目の前に開けてもいる。その途中の道はまさに自由に張り巡らされている迷路のようにも思える。意識の捉え方で方向が変わって見える。意識が感覚にとらわれてその外側に向いている時と、感覚を従えて内側に向く時とで現れ方が変わってくる。無限への帰り道は内面の世界を広げていくことで開けてくる。そのことを忘れて、外の世界に無限を求めようとした結果、迷路にはまり込んでしまっている現実がある。

 命の尊さ、無限の意識と呼ぶ聖なるものへの関心を高める生活技術が求められている。

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