エッセイ・論考

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その1・渡名喜島 
重ねる「先人の知恵」~風水が住空間の秩序に~

 台風で被害を受けた渡名喜島を訪ねた。
渡名喜島は二十年前に集落の調査を手伝ったことがある。フクギの屋敷林に挟まれた白砂の道、掘り下げられた敷地、独自の集落形態はそのままだ。先人の知恵はそれぞれの時代に手を加えられて維持されてきた。サンゴ石積みやコンクリートブロックの屋敷囲い、砂を敷き詰めた道、そのズレや曲がりぐあいにも親しみを覚える。
 白砂の道は屋敷と連続しているが、道と屋敷はさまざまな造りのヒンプン(ソーンジャキ)で簡易に仕切られている。掃き清められた砂地は、みんなの庭であるかのように、気持ちを和ませる。あいさつや会話がやさしく響き、空間が共有されているという安堵感がある。
 集落東側の古い民家に、昔の家の間取りの特徴が残っている。屋敷の構成が一般の家とは逆になっているのだ。つまり、台所や水場が西側ではなく東側に位置している。
 案内してくれた村役場の職員の説明では、拝所の位置との関係で、東と西(上と下)を逆転させているのではないかという。神をまつる行事の時に東と西の集落の間の道が神の通り道になるため、その道が聖域となる。神聖な場所に隣接する民家は、その方向に一番座を備えるという、伝統的集落の見えない力が働いていると考えられる。神の存在が集落の住空間に秩序を与えているということなのだろうか。

台所の東側への配置はもう一つの理由を考えることができる。
島の交通機関は昔も今も舟である。島を渡るのも漁に出るときも発着の起点は港だ。 集落の地形がひょうたん型になっていて、そのくぼみに東と西の集落が位置しているため、西の集落は西の海に、東の集落は東の海に近い。その利便性、海に近い側に生活の基軸があったとみることもできるのではないだろうか。それを考える場合は、その時代の男女の働きと社会的な背景にも思いをめぐらす。女性が生活の中でどのような役割を担っていたか、文化人類学の知恵も必要だろう。

沖縄の古代の生活習慣についてはまだよくわかっていない。
そこから、もう一つのヒントが連想される。風水の捉え方である。沖縄の風水は中国との交流でもたらされたとされている。東の方は沖縄の一般の集落の配置同様、確かにその影響下でつくられたのだろうと想像できる。しかしながら、それ以前のことはあまりわかっていない。その以前から人が住んでいたのだとするなら、古代の風水にも考えが及ぶ。 というのはインドの古代風水が説いている台所の最良の配置は南東側である。
地磁気の巡りを基軸にする古代の風水では南東は火の性格を帯びていて火を扱うのにふさわしい場所は南東ということだ。このことは地域の特色というより、地球という一つの生きた惑星の秩序と飛躍して受け止めた方が理解しやすいと思う。そこに人間的な暮らしのヒントが隠されているのかもしれないから・・・。
渡名喜島の集落に話を戻して、二十年前と比較してコンクリート造りの家が増え、この島独特の掘り下げ屋敷は減っていく傾向にある。経済や物流の制約を受ける島の暮らしは時代の風潮を取り込みながら変化していく様子に島の活力を感じる。最小限のエネルギーで最大限の活用を図る人間的なスケールに則した集落構成の特色がうかがえる。 例えば、資材の調達がままならないので、古い資材を徹底して再利用しているのも頼もしい。時間をかけて少しずつ築いていく楽しみが感じられる。少ない資材を最大限に活用するやり方は、ユイの伝統が長く続いてきたことを思わせる。
台風で屋根を飛ばされ、床上浸水した家も多かった。台風の被害の後、どのように変わっていくのだろうか。先人たちがつくってきたその土地固有の生活空間から何を学びとるか。何世代もの間、積み重ねられてきた先人の知恵を謙虚に受け止めたい。

その2:ボルネオの集落
高床式住居の源流 ~ 生活の基底に水~

台風で浸水被害にあった渡名喜島の民家(掘り込み屋敷)が抱える課題は、伝統の知恵がそのままの姿では機能しなくなっているということだ。この問題はかつてさまざまな方法で水を管理してきた、沖縄の水文化を再認識する機会を与えているように思う。

水辺の環境とくらしが混然一体となっていた生活原理をもう一度よみがえらせる道はないものだろうか。そのヒントを考えていると、ボルネオの集落が思い浮かんできた。 写真は赤道直下のインドネシア、ボルネオ島マハカム川上流に住むダヤックの人々の住まいである。

生活のすべてが川の流れに規定されて成り立っており、船が人や物を運ぶ唯一の交通機関である。川沿いに集落があり、家々の前に浮かぶマンディと呼ぶイカダの水場があって、風呂や便所や洗濯場になっている。

川は生活の汚れを流す装置になっていると同時に水浴場でもある。家と家との距離が一定の間隔を保っていることで、上水と下水の双方の役目を同時に果たしている。個々の家は川の水位に応じた高床式で流れにまかせた自然との関係をつくっている。

雨季には洪水で水があふれ、集落全体がすっぽり川の上に浮かび、ボートで行き来することになる。水の動きに逆らわず、水の上で生活することをあたりまえに受け入れているのだ。  遠くの森で雨が降れば川の水が増すのに長い時間がかかる。生活時間の間合いの長さは、人々の生活リズムであり、広大なスケールの生活領域は、無限の広がりを持っている。川は水の巡る道であることを無意識のうちに知っている人々の生活態度がうかがえる。

生活の基底を流れている水の存在を忘れてしまった文明社会。経験と想像力を働かせて築いてきた共通の基盤が崩れつつある事を今あらためて実感する。それぞれの生活の場で共有すべき重要なことは何か。生活にとって最小限必要なものは何かを問いかけている。

私たちは、快適さを求める一方で、熱帯の森林を侵食している。熱帯の島々は文明社会の理想の楽園でもなければ、資源の宝庫でもない。私たちが損なってしまった、共同のシステムを再生する知恵をそこから学んでいく必要があるのではないか。「人を以って天を滅ぼす事なかれ」(作為によって自然の働きをそこなわないように)という古(いにしえ)の 教訓をかみしめたい。

その3:戦前の民家に学ぶ 
~石の素材に着目~

仕事の帰り道、宜野湾市の古い集落を歩いていてふと見事な石積みのある屋敷が目にとまった。

赤瓦屋根の軒柱のつくりが珍しいので家の主にその由緒を尋ねてみた。聞くところによるとその柱は何と七十年前のコンクリートであった。柱の表面は流し込む時に使ったと思われるセメント袋や芭蕉の葉の型が残っていて手造りの跡形をとどめる臨場感がある。  その時代は軍備拡張のあおりで、鉄が不足していたため、鉄筋の代用として松の枝が使われたという。「松枝筋コンクリート」である。スラブ屋根の馬車小屋も当時のまま残っている。当時、那覇大門(ウフジョウ)通りに出来た百貨店の現場を見て学んだという。  コンクリートの導入はイシジェーク(石工)だった当家の先々代が風に強い心地よい住まいを実現しようとした型破りな挑戦だった。「ヤーヤチュクラン、ハカルチュクイミ(家ではなく墓を造るのか)」と周りから笑われた。その時代は石の家と言えば墓を意味し、家屋に石を使うのは嫌われていたので石をふんだんに使うことは思い切りのいる仕事だったに違いない。屋敷の囲いはほとんど生垣や福木だった。石工の気概がうかがえる。

用途に応じて三種類の石が使われた。屋敷を取り囲む塀には読谷の海から切り出してきたサンゴ石、主屋の北と西の壁面は南部の石を積み、入り口の堅固な石は近くの石切り場から運んだ。馬車ムチャーだった息子が手伝って力を合わせて取り組んだ。切石の破片は前庭に敷き詰めた。石を使う事で湿度に弱い木造の家を改良し、コンクリートを代用する事で木造のよさを引き立たせている。  石で作ればよいはずの軒柱をコンクリートにした職人の心意気が感じられる。家が出来た当時周りの人たちは樹に囲まれて鬱蒼とした家並みの中に「この家だけがアカイクヮーラ(明々と)している」と口々にいっていたそうだ。樹の無い家があたりまえのようになった今の街の姿は翁の目にどう映るだろうか。

昭和四年といえば世界恐慌の年でもある。新しい時代の行く末をどのように見ていたのだろうか。その場の空気を読み取って、もてる力を生かしきる行動力に感心する。そして、厳しい時代を乗り切る知恵をそこから学ぶことが出来る。不安定で先の見えない今の世の中、見識を備えた先人の知恵は確かな手ごたえを感じさせる。松枝筋の柱やスラブはまだまだ健在、百年住宅の達成も近いと家主は言っていた。

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