エッセイ・論考

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めぐりのいい建築 ~素材選択の基準を考える

堅木フローリング張りのリビングが沖縄の住宅のスタンダードになっている。何のためらいもなく床材はできればチークと決め込んでいるほど南洋材が普及している。チーク、ネシアカリン、メルバウ。南洋材はもう手に入れにくくなるだろうと思い込んでいたが、フローリング材は今なおそのほとんどが南洋材に頼っている感がある。  材木を選ぶ際、建主や現場の棟梁と連れ立って材木屋を訪ねて、堅木の品目を目で見て確かめる。ボルネオ島で見た丸太の切り出し現場の森の光景が眼に浮かぶ。初めて見るスケールの大きな河と森林、メランティと呼ばれるラワン系の見事な樹冠や巨大な板根は、森の熾烈な生存の戦いのあとに生き残った森の主のように威風堂々とそびえていた。樹は森のなかで自生している姿が何とも美しい。行った先の多くの森は樹木が伐りつくされて、再生するのかどうか、それにはどれほど時間がかかるのかわからないままの状態で森は壊されていく。

ありふれた代物のように型枠にして使ってしまうベニヤ板一枚が愛すべき命の片鱗なのだということを実感したことは貴重な体験であった。コンクリート造の家が増えていく昨今、いつまでも南洋材に頼ってもいられないと思う。素材の選択の基準をもう一度考え直してみる必要があるのではないか。

●曲げ美らさ、歌美らさ

奄美大島で設計した木造住宅の工事の際、現場の棟梁と話して軒柱や扉の取手を探しに近くの森へ行った。椎の木の繁る雑木林の中に白タモ、赤モモ、山桜などの特有のひねりを持つ樹の曲がり具合を見ながら、どう活かせるのかを考えるのはとても楽しい。森の樹にくわしい棟梁の、水を得た魚のような自信満々の表情が屈託なく嬉しい。自分の経験と勘を生かせるのりのいい仕事にははりがあるし、職人の心意気が伝わってくる。製材された材木から樹の心気を感じるのは難しいが、森の空間体験から伝わってくる波長を感じ取ることは可能だ。空間体験の臨場感は言葉では伝えにくいのだが、その森にはその森の相、樹には樹の相があり、人それぞれの感じ方、その時の心の波長にも大きく左右される。使う人、知恵を出す人、つくる人の三者三様の見方、感じ方が一本の同じ柱に集約されれば、生かされていく樹木もきっと喜んでくれると思える。

奄美の島歌に「曲げ美らさ、歌美らさ」という表現がある。音が曲がるという言い方は独特な表現だ。森のなかでせめぎ合うかのように生きている木々の命にも似た島歌の心があるのだろう。その時その場の歌の曲がりぐあいがいいかどうかというのが歌者の心意気なら、人と、時と、場のノリのいい歌の曲相があるということなら、家にも曲がりのいい家の相がきっとあるはずだ。歌詞と音曲を家の相にたとえてUtilization(用)と環境の調和Circulation(曲)。用は科学的に考えることで、曲はアートの感覚で見ることとしてみる。それぞれの見方と考え方によってデザインする姿勢があっていいだろう。用と曲をつないでいるのは何だろうと勝手に思いをめぐらせてみた。

用と曲はそれぞれのバランスを保っている3つの間合いがある。自然に対するエコロジカルな視点と今を生きるというタイムリーな間合いと、人の気質に見合った視点の3つである。それぞれのめぐりのいい状態を保っていく建材の選び方使い方があると思う。

自然の素材は身近な流通経路で供給されたほうが物の移動に余計な負担をかけなくてすむ。工業製品や規格品の扱いにしても、つくられてくる商品のイメージにとらわれずに、選択のバリエーションが素材の活用の幅を広げていく方向があると思う。利益を追求する過度な生産システムで生まれてくる商品が地域全体の用に基づいていないというところに問題があるのだろう。経済の実権が地域の人々の手中にないかぎり、最小限の生活の必要を満たすために費やすエネルギーはとどまるところを知らない。

●松枝筋コンクリート

宜野湾市の旧集落で石造の軒柱のある木造の民家に出会った。庭先は何台もの車が入るように開かれていたので、声をかけると軒先へ案内してくれた。聞くところによると軒柱は石ではなく、昔のコンクリートだった。昭和4年に建てられた家らしいが、当時は木の枝や芭蕉の葉などを使って型枠をこしらえたらしい。コンパネ特有の肌合いではなく鍾乳洞の岩肌のようで、一見すると石のようである。当時、軍備の拡張で鉄が不足していたため、鉄筋の代用として松の枝が使われたという。

離れにある納屋も戦災を免れて当時のコンクリートスラブの屋根が残っていた。石積みの壁の上に乗ったリブ状の梁の割れ目からは確かに径5センチほどの松の枝が突き出ていた。松枝筋で補強されたコンクリート造である。

こんな試みがどれほど広まっていたかは不明だが、今日的な建材の選択と相通ずる面がありそうだ。近代合理主義の受け入れがその頃から始まっていたのか、コンクリートが他の素材よりも安い材料であったのかはわからない。当時はコンクリートも石づくりの代用品に過ぎないものだったようにも思える。

コンクリートの石柱はアナヤー(穴屋)とヌチヤー(貫屋)の複合した建築様式を思わせる。アナヤーの石づくりからヌチヤー木造りへの移行。そして戦後再びコンクリートブロックの石づくりへと移行した。コンクリートブロック造は米軍施設の建設ブームのあと、またたくまに石積みの代用として普及するようになった。オキナワンネオスタンダードとしてとらえても良さそうだ。時代の変わり目のスタンダードを観察することで、住宅建築もまた、その時代の潮流に揺さぶられながら進んでいくのを見ることができる。

●落下傘の布でつくったサンシン

復帰する前後の基地周辺の沿道には米軍放出品を売る店が点在していた。皿やカップなどの食器類から、衣類、寝具、工具、建材まで何でも取り揃う小さな雑貨店である。生活雑器、家具調度品は十数年たった今もなお生活の一部を力強く支え続けている。

例えばサンシンのタイコを蛇皮のかわりに落下傘の丈夫な布を張ってみた。蛇皮なかったのではなく、そのほうがローコストで長持ちした。

軍需物資の再利用は社会が好んで招いた状況ではなく経済競争や政治の抑圧の果てに生じた消費のギャップを補う行為であり、生活の必要を満たす道具であり、遊びのある知恵でもあった。与えられた素材は何であれ再利用を可能にすることによって、過剰生産のギャップを想像力で埋める姿勢はシステムによる搾取や圧力が持ち込んだスードーカルチャー(偽文化)に対する抗議を含んでいる。そしてその出会い方はどうであれ、生活の必要や人間的要求を満たすために働く知恵やエネルギッシュな表現は独創的なチャンプルーの薫りが漂っていた。その後、米軍の払い下げ店はアメリカングッズの店へと様変わりして、観光商品の流れとともに物や情報の洪水に埋もれていった。

現在のような過度の産品が侵入することによって人々の喜びの対象は外に向かい、スードーカルチャーは本物志向のアイデアまでもブランド化してしまう。心のゆかしさ、その人らしさはどこかへ置き忘れられている。みんなは一人の繊細な感情を受けとめるゆとりを持ち合わせていないし、一人はみんなのためになにかをする余裕がない。

●価値基準の変化

産業構造がサービス業中心の生産体系へ転換するのと平行して、生活の中心は座卓を囲むタタミ式からソファー形式のリビングへ変わっていった。ムラからマチへの社会構造の変化は、生活の価値観をもゆるがした。愛と信頼に支えられたシマ社会の人のつながりは弱まり、人々の自然との関わりもバランスを崩している。今、歴史、環境、社会を振り返って生活の価値体系を見直すいい機会ではないだろうか。

戦後すでに半世紀を過ぎて、生活の規範は失われた過去の伝統や習慣を回復させることへのこだわりから、個々の快適さを獲得するところへと価値基準が変化してきている。最小限の必要を満たすことから始まって気候風土に呼応する快適さへ、そして一部には生命の維持に対する関心が高まってきている。その評価の基準は個人によって差はあると思うが、今後、人間らしさへの関心が高まるにつけ、より精神的で文化的な充足を望むようになっていくだろう。人の活動は経済的な側面を必要とするけれども、それは技術や人材として存在するのではない。広く生きがいや人間としての喜びを感じることのできる生き方を探していくことに意味があるのだと思う。

雑誌掲載記事 「住宅建築」1997年8月号 特集;沖縄の元気な住宅より

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