エッセイ・論考

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時の巡りに住むことの意味を考える

昨年、20年目にして改築することになった「風水の家」の設計に再び関わった。20年の歳月を振り返って眺めてみることで「住む」ことの意味を考えてみたい。

この住宅の構想を練っていた当時、施主の「家」に対する思いは「外の世界へ打って出るための陣地であり、身を守るとりで」であった。そして風雨に耐え抜いた20年間の活動の拠点は今、身体の一部として機能してきたことを物語っている。「住宅は住むための機械である」と行ったのはル・コルビュジエである。その言葉の内に自然の保全と人工的構築、すなわち人間生活を取り囲む環境全体にとって「あらゆる部分が人の存在を構成している」という意味を含んでいるように思う。そういう意味で、この家は日々の感情や様々な想いとともに、20年間住むための道具として、身体の一部になり切っている。そして今「住むための機械」になっている事を喜びたい。身体は心の住まいであると同時に、心の中にもまた、魂が住んでいるということができる。あらゆる存在が生活の一部を構成する要素であり、住むための機械である住宅もまた、独自性をもって表れる生命活動の一部であると思う。コルビュジエの言葉の真意はよく知らないが、「家は魂が住むための機械である」と受け止めてみたい。

都市願望―設備偏重の近代化の波が押し寄せていた1970年代の後半頃、自然のサイクルとどう触れ合い、折り合っていくのかを建築的に考える機会に巡り逢ったのが、「風水の家」計画だった。本土復帰以後、加速された近代化の波の勢いと並行して、街に住むことは、自然との接触を拒んできた歴史でもあった。否応なく進行する経済偏重の産業構造は気づかないうちに生命環境を危ぶむ結果を呼んでいた。

巡りのいい住空間を求めて 「風水の家」以後の展開

住空間が生命力を回復することに挑むこともまた、新しい住環境のテーマになっていった。生命力につながる住まいを考えることは、街の中に、より人間的な生活を要求することに結びつく。それは生活の中に、無駄のないゆとりを生み出すことであり、生活のサイクルを自然のサイクルに近づけていくことを意味する。

本来、人が住むということは、それだけで十分人間的な表現行為を伴うものである。いつかに人間らしく住むかという問いかけは、その時代の価値基準の正負を真正面からゆさぶる。そして時代の価値観を超えて「住むための機械」である住宅は、よりよく使われることによって普遍的にその使命を全うすることができる。

「風水の家」で試みた伝統的空間の新しい生かし方をその後、いくつかの住宅で展開していった。住まい方によるテーマは異なっていても、今を生きるための伝統に根差した知恵の多くを民家に学んでいる点で共通している。付き合いの場としての広間の活用、素材を変えた二重断熱の方法(サンゴ石、赤土モルタルなど)、身近な素材を使った表現手法、潜在的資源の活用法など、人と自然の巡りのいい関係を目指している点で一貫している。

「海の家」、「山の家」の住宅計画は、陽の巡りをテーマに名護市内の東の山辺と西の海辺に位置する二つの家を、陽の巡る時刻の移動に合わせて、一対の関係を結ぶ兄弟のように計画した。屋根の断熱材として近くの浜辺から拾い集めたサンゴ石を使った。床下を深くとった高床が自然換気の装置を備えていて、無双式の小窓で各室と外をつないでいる。

有機農業を営んできたNさんの場合は、その暮らしぶりや活動は一貫してエコロジー運動に根差していた。「ちゅらさ石けん工場」の計画に際しても、自然の根源へ帰って生活を見つめようとする視点があった。さらに、「ちゅらさん石けん工場」をつくることがエコロジー運動を広く展開していくことを含んでいた。一方、ハルヤ(畑屋)のT夫婦は普通に都市生活を営んでいながら、余分の土地に菜園を作って楽しんでいた。趣味の為の工房をつくり、菜園と共に新しい生活を楽しむ計画だった。二つの建築は趣向が全く違い、視点も異なるが、共通性をあげるとすれば、ともに自然への関心が高いことである。「ちゅらさん石けん工場」は、水環境をテーマに水の巡る道としての川をデザインした。二つのらせんを流れる水は、山に降る雨が森から谷へそそぎ、巡り巡って海へ還っていく。自然界の循環のシステムをムイ(森・丘・山など)とクムイ(池・沼・川縁など)の一対の関係で表現した。それは同時に小宇宙の生命の恵みを象徴している。宇宙意識に目覚めることがエコロジー運動の行く先なのではないかという想いを込めて飛躍してみるのもいいと思う。「人がいかに心を広げていくか」という人間存在のテーマが、環境問題の大切な部分であることを広く一般の認識としてつなぎとめていきたい。

もう一方は、都市の住人が街の中で土を耕すことを楽しみ、生命を育てることの喜びを身近に味わうために畑小屋をつくることで新しい生き方を実践することだった。ネートゥケートゥという言葉は、方言で「仲のいい夫婦」の意味だが、二人で一つの存在という意味でもとらえられる。その言葉で言えるような庭と畑、畑と家、家と庭、といった「対」の関係を設計のコンセプトに導入した。互いに助け合っている「つがい」の間柄を表現したかった。

時代を超えて「魂の住む機械」を想う

この地球が生命の危機に瀕していることを、多くの人たちが無意識のうちに感じていると思う。そして、誰もが生活の周りで環境に対して自分なりに何かできることがあるのではないか。建築する行為が自然のサイクルと人間生活との和合にどこまで関われるか。環境のテーマは、頭で理解しても行動が伴わないという、現実とのギャップを多く抱えている。

住宅情報誌を見ると、家づくりは個人個人の思考感情、趣味趣向に応じた心模様を表現することに終始している。そこに正負の基準はあるか。自然と人間との幸福な関係を見出そうと思うなら、家づくりは人間の住む居住単位としての家族のあり方を見直す絶好の機会であると思う。それは人が生活の対象物への執着から、いかに解放されるかという事を問いかけ、また、存在と所有のあり方を考える事でもあると思う。「住宅は住むための機械である」というコルビュジエの命題から「心の住む家」を引き出してみたい。人の存在に関わる、あらゆる部分の中の一つである住まい、「魂の住む機械」としての住宅を、もう一度建築の中で考えてみたい。そして、今後、心の中に住みたいという新しい時代の要求、「家は幸福を育む器である」という普遍的なテーマを探っていきたい。今、世の中は暗闇の中を突き進みながらほのかな灯(あかり)のありかを探し求めているように思えるから。

掲載誌:<季刊>SOLAR  CAT no.35
特集:再見・日本のエコロジカルハウス~環境制御技術の30年~
発行日:1999年5月25日

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