エッセイ・論考

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存在価値の発見

 9月の満月の日、友人に誘われて山歩きをした。2年後、ダム工事のために水没してしまう川の上流を、川上に向かって歩いていく。沢をたどり、岩間をくぐり、時には道なき道をひざの上まで水につかりながら歩く。街中では見かけることのない草花や木々の合間をぬって、森の奥へ分け入る。水の音や鳥のさえずりに聞き入って歩き進むうち、いつの間にか、心も体も精妙な森のリズムに魅了され、自然の波長につつまれて、しばし、和やかな空気に満たされる。

 森の中の木々は陽の光を分け合い、神秘的な輝きを放っている。大きな蝶々や色鮮やかな川トンボが目の前を飛び交い、まるで楽園の中にいるようだ。

 自然のリズムは、感覚を喜ばせてくれるから、どこまで歩いても疲れを感じないし、険しい道苦もなく進んでいく。しだいに皆の目も輝いてきて、生きもの達と共にいることを楽しんでいた。

 人と生きもの達の距離がこんなに近く感じることはめったにない。まるで私達に何かを告げたいかのように近寄ってくる。私達も五感をいっぱい働かせて、彼等の様子を観察する。森の生物が身近にいるというだけで嬉しくなる。有用なものだけに価値があるというのではなく、そこに居合わせているだけで価値があることに気づく平和なひと時であった。 帰り道、川原の砂や小石まで、天の星くずのように思えてきて、その丸くなった小石をひろった。存在するものがすべて星くずのように煌めいている瞬間を想像してみた。

 そんな境地でいつもいられたら、あらゆる存在に価値を見出せたらどんなにすばらしいだろう。森を出て、ダム工事の現場の高架橋から歩いてきた森の外観を見下ろして、現実に戻って考えた。ダム建設のために森を伐採しなければならないのだという。都会に水を供給するために有用価値が発生し、森の生物達の存在価値が切り捨てられるという選択が安易に行われてしまったようだ。

 生物の存在価値がどれほど大切であるかという問いがないまま、経済的優位性が物事を決めてしまう論理だ。理性的な判断を欠いているとしか思えない。ダム建設=都市生活用水の需要の増大=有用価値の選択ということになるのか。

 私たちの日常は、人間、動物、植物の世界のエコロジー的バランスを考えるゆとりがなく、そのことが私達自身の生活にも影響を与えているのだということに気づいていない。また、気づいたとしても、その解決方法を考える前に経済効率という言葉の前では無抵抗の状態だ。

 『この世に生きるすべての実体は、動物、植物にかかわらず、二種類の価値を持っています。一つは「有用価値」、もう一つは「存在価値」です。…中略…人間だけが生きていく権利をもっていて、人間以外にはそれがないとは誰にも言えないのです。すべては命あるもの、人間にとって有用性がないにしても、あるいは私達がその存在の意味について気付いていないとしても、すべての生物は存在価値をもっています。しばしば私達は、ある生物の有用価値を、あるいはその存在価値を知りません。それには存在価値がないと誤って考えているのです。それは愚かさの極みです。』 P・R サーカー

 その日の夜、満月の光の下で、海辺を歩きながらモンゴルの月夜を思い浮かべた。9月の満月を見ると、2年前モンゴルを訪ねた時、私たちを案内し、行動を共にしてきたモンゴルの友人アルジュンのことが偲ばれる。モンゴルを離れる日の別れの言葉が今も忘れられない。『明日の夜は満月。あなたが家に帰ったら、空の満月を見てね。あなたはあなたの場所から、私はモンゴルから、同時にあの空の月を眺めよう。』その時の彼の唐突な別れの言葉が嬉しかった。とてもロマンチックな彼らしい表現だった。その日はあいにく台風の接近で、月を見ることはできなかったが、この季節になると満月と重なって彼の笑顔が思い浮かぶ。彼は去年、モンゴルの川で溺れてそのまま帰らぬ人となってしまった。

 アルジュンは長年の間ロータスチルドレンセンター(ウランバートルにある児童養護施設)の世話をしてきた。彼はロータスの子供達にとってお父さんのような存在だった。厳しい現実を背負いながら、彼を取り巻く子供達にいつも笑いを与え続けていた。その顔は今も星のきらめきのように子供達の笑顔と共に輝いている。彼と共にいることで私も養護施設の支援をしたいという意思を強くすることができた。その人が居るというだけで心強くなれる存在は、その影響力がいつまでも消えずに残っている。

 NPOのフェスティバルに参加した時、県内の養護施設に勤めている人が、私たちが展示したロータスセンターの子供達の写真を見て、「ここの子供達はよく育っている。顔が輝いている!」と言っていた。彼女の話によると、彼女の勤めている施設では有り余るほど物が与えられているが、愛情で満たされることがあまりなく、子供達の表情は暗いと言う。こんな率直な意見に出会うと、嬉しくなる反面、私達自身の目をもっと身近なところに向けていく必要を感じてしまう。

 物で満ちあふれている私達の社会では、支援活動と言えば何か物を分け与えることのように思われがちだ。足りないものを補うことは支援の基本だが、それ以前の問題があるように思う。物余りの国からの物の受け渡しは、単なる不用品処分の対象になり易いし、物が有り余る時代は、そう長く続くとは思えない。

 子供達にとって本当に必要なことは何か?自信を持って生きられるようになるには?安心して心をゆだねることのできる居場所を見つけること。そして、子供達の成長を見守ることが大切だ。センターの子供達が輝いているのは、彼等が家族同様に大きな愛情に包まれて育っているからだ。モンゴルに行って彼らを応援する私達のほうが、反対にいっぱい愛情をもらって帰ってくる。それはとても喜ばしいことだ。これからの活動のあり方は、豊かな国からやってきて困っている人たちを支援するというイメージではなく、子供達の自立の手助けをすることで私達自身も自立の道を探るという関係を自覚するべきだ。お互いに支えあっていることを喜べるようなスタンスが必要なのだと思う。子供達の存在価値を見出すことに、応援する意味があるように思える。

 そもそも、彼等のようなストリートチルドレンが生まれてしまう原因は何か。子供達が踏みにじられ、打ち捨てられて、社会から見放されてきたのは何故か。私達の暮らしを豊かにしてきた、物余りの現象と無関係ではなさそうだ。必要なものが必要なところへ配られることなく、物や知的資源が使われずに捨てられていくことが何と多いことだろう。私達はそれを分かち合う知恵を持っているはずなのに使っていない。世界の現実を知らず、それを学ぶことをせず、ただひたすら競争のルールに縛られている。豊かであるはずの大多数の人が、日々の必要を満たすために、膨大なエネルギーを費やしている。モンゴルに何度か行って気づいたことは、私達は競争社会の中にどっぷりつかっていて、これが現実だと思い込んでいることだ。

 本当は、この世界はみんなに行き渡るだけの豊かな資源に恵まれていて、お互いが分け合うことができるはずなのにと残念に思う。

 私達の社会はすでに必要以上の豊かなものがあるにもかかわらず、もっと欲しがることを、当然のように認めている。そうして、お互いが奪い合う経済的な争いの中に引き込まれていく。戦争の只中にいるようなものだ。今、私達に必要なことは、生きる喜びを取り戻すことではないだろうか。

 ボランティア活動に参加して、現地に出向いて行き、彼等と共に生活を体験することは、自分達のおかれている社会の状況を客観的に見る機会でもある。多様な価値観と出会い、人間として生きること、あらゆる存在の価値を認めることがどれほど大切なことか。私達がボランティアの活動に求めることは、私達自身が価値のある生き方を発見するきっかけをつくっていくことではないか。

 沖縄の方言で「ナンクルナイ」という言葉がある。人の手を借りずに自生し、実をつける桑の実のように、自然に実を結ぶ状態をいう。何か困難な問題に直面した時の自らの態度を表す時にこの言葉をよく使う。放っておけばなるようになるという、あなたまかせの意味にもとれる。客観的に見れば、自らの意思が肯定的にも否定的にも受け取れるあいまいな表現の内に独自のバランス感覚が働いている。主体的な意思を込めてこの言葉を発する時、心はその事にどう関われるかという自らの可能性を探している。自発性は自然に芽生え、実を結ぶかどうかは大いなる自然の意思にまかせてしまう。そこで主体性を発揮することができるかどうかは、その人のサービス精神にゆだねられる。自生した桑の木は、サービス精神と出会ってその有用価値をひろげ、存在価値を高めることができる。沖縄の言葉で他に分け与えることを「ワップ―」と呼ぶ。必要なところに愛情を届ける分配の法則だ。このワップーの精神と、ナンクルの自発性が出会うところに、自らの意識をひろげる鍵が隠されているように思える。

 同様にボランティア精神もサービス精神と出合うことによって自らの存在価値を高め、愛を培う行為を生み出すのだと思う。

 物を中心に事が動いていく現実の世界で、そう思えるのは難しいかも知れない。見方をかえて、事を中心に物が動く現実を想像してみるといい。ボランティアに限らず、あらゆる働きが本来、そうした意識を高める行為につながるはずだ。

 「それでも人生にイエスという」(V.E.フランクル著)という本の中で著者は日常の中の行動について言っている。

 『日常は灰色で平凡でつまらないものに見えますが、そう見えるだけです。その日常を透明なものにする、日常を通して永遠が見えるようにすることだけが問題なのではありません。最終的に大切なのは、この永遠が、時間に戻るよう私達に指し示していることです。時間的なもの、日常的なものは有限なものが無限なものにたえず出会う場所なのです。この出合いが、日常を「神聖なものにする」可能性になるのでず。私達が時間の中で創造したり、体験したり、苦悩したりしていることは、同時に永遠に向かって創造し、体験したり、苦悩しているのです。』

 さらに、日常の中での責任を自覚することによって、日常がいっそうリアリティを持つようになる。そして、この現実が何かを実現する可能性につながるといっている。

 日々の仕事など日常の中で、責任を引き受けることを喜べる時、日々の仕事や暮らしが存在価値を高める働きに変わるのだと思う。その時、あらゆる働きは、日常的なものがたえず永遠なる存在に出合う場になる。そこに自己発見への道が開かれているのではないだろうか。

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