エッセイ・論考

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新鮮な出会いの断片から

天久の住宅は、建具枠や階段の造作など、最近の沖縄の住宅に比べると、木工事の造作が割合多い設計だったので、現場の棟梁は、木工事のために二人の山原大工を呼んできてその工事に当たった。木造の家がどんどん建て替えられて、本格的に木を扱える職人が減ってきている。需要がなくなり、みがいた腕をふるう場がなく、転業していった職人達が多いと聞く。すぐれた技巧を持つ昔ながらの職人達、たとえば石工、瓦葺き職人など、年々減少していっている。潜在的にもっているすぐれたものがただすたれていくのは惜しい。一方、陶芸、ガラス、織物などの工芸は、その職人達によって伝承され、若い世代が台頭して新しい方向を模索している。

これまで、いくつかの現場を通じて、職人達との新鮮な出会いの中に新しい表現の可能性をみてきたように思う。天久の住宅の現場で試みたのが色吹きガラスである。工房を訪ねて、照明器具を吹いてもらう。ガラス吹職人との何度かのやりとりの中から出来上がったのは、描いていたものとは違って職人の息のかかったものになっていた。また、ガラスを円板状に吹いて延ばし、ブロックの大きさに板片をハメ込むステンドガラスもでてきた。こうした職人との付き合い方は沖縄ならではのような気がする。

この住宅でのガラスのつき合いは石川白浜公園に引きつがれ、その後、名護市庁舎につながっていく。工場も施盤用機械を改良してプレス加工機を登場させ、かなりの厚さの色ガラスをつくるようになった。今考えると歩止まりの悪い工程をよくこなしてきたと思う。また、石川市の白浜公園ではガラスの他に石工や陶工達との出会い、石と焼物とのつき合いが始まった。琉球石灰岩と一言でいっても、産出する場所によって性質が異なり、石を扱う職人もまた、独自の積み方があり、表現方法を異にする。白浜公園では工事が二期に渡り、一期目と二期目の職人達とではまるっきり表情が変わったものになった。

こうした石工達が居るということの前提なしには計画はありえないわけだし、石工達との接触の中から設計のきめてになるものが多くでてくる。むしろ石工に教えられるところが大きいといった方がよさそうだ。チャンスがあれば、個性のある石工の腕をふるってもらう計画をやってみたいと思う。

焼物については、はじめの段階は工房ばたくさんあるということから、窯から排出する陶器の破片を集めてモザイクに使うというところからスタートした。いろいろ窯元を歩いては破片をもらっているうち、発色や色つやを少しずつ知って、いくつかの窯元とつき合いだすようになっていった。そうした中からロクロで挽いた焼物を使ってみる話が湧いてきて、陶器皿を焼いてみるところまで、一期工事の最中でこぎつけた。二期工事でこの試みを展開していった。地元中部の三人の陶工達にお願いして、三人三様の特色を出しながら全体をまとめていった。何度も足を運ぶたびに、焼き上がってくる陶器と対面しては期待と不安で一喜一憂した。
いい陶工達、職人達との出会いの中から見いだしていけるものがいっぱいあるように思うし、お互いの表現に影響を与えながら何度かつき合いを重ねていきたいと思っている。

いろいろなファクターとの出会いを通して新しい表現が生まれてくる。そんな可能性の豊かさを地域は持っているような気がする。

夏の暑さがはじまろうとする4月の中頃、本島南部の海岸線を歩いていて、ふと黒々と影をおとした石灰岩の岩の合い間から、あたり一面に吹き乱れてひろがっている白いテッポーユリの姿を見つけて感動したのを印象深く覚えている。白い波頭に顔を向けて咲いているのが凛々しく思われた。数えきれないほどの白い花の群が芝生の中からきまって顔を出すのは壮観である。同じ季節にもう一度同じ風景を見たなら、ま新しさは消えてなくなっても、出会いの新鮮さは残っているに違いない。
夏の暑さが峠を過ぎる十月頃、家の庭先のハチに植えてある月下美人が径20cmほどの大きな白い花を咲かせた。華麗な一輪は夜8時近くに目で見届けられるスピードで花を開いて、翌朝の日の出前まで一中夜の開花である。触ると閉じてしまいそうな可憐な白さで輝いて、香ばしい匂いをあたり一面に漂わせる鉢を部屋の中に移すと、部屋中が強い香りにつつまれる。

庭先に咲いた月下美人の香りやら、海岸線の石灰岩の丘に漂っている新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んでは、またはき返している。
そうした日常の断片の中に、新しい意識との出会いがいろいろなかたちでやってきては、心のつき合いを開始する。そうした日常のひろがりの中で、物がみな、心の片鱗と化してしまうような建築が生まれてきてもいい。意識との出会いはどこに居ても可能なように思うし、また、地域という領域を越えてひろがっていくようにも思われる。

「建築知識 1983年1月号」 掲載

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